ホテル・旅館のカスタマーハラスメント対策|2026年10月義務化に経営者はどう備えるか
HOTEL & RYOKAN ─ カスタマーハラスメント対策
フロントの女性スタッフを
毎日のように追い詰めたのは、
お客様ではありませんでした。
一時間、ときにはそれ以上、電話口で怒鳴り続けたのは、「客を送ってやっている」と信じて疑わない取引先の担当者。宿の現場を静かに壊していく理不尽は、いつも経営者の目の届かないところで起きています。

こんにちは。ホテル旅館コンサルタントの青木康弘です。
カスタマーハラスメント(顧客等による著しい迷惑行為。以下、カスハラ)と聞くと、フロントで声を荒げる宿泊客を思い浮かべる方が多いかもしれません。けれど、冒頭の話のように、現場を追い詰めるのはお客様だけではありません。お客様、そして取引先から向けられる理不尽な言動は、宿泊業に長く根を張ってきた問題です。そして深く傷つくのは、いつも現場のスタッフ。その傷が経営者に見えないまま、原因のわからない離職だけが続く――そういうことが起こりうる業態です。
けれど、2026年10月から、状況は変わります。宿には「断る武器」(改正旅館業法)と「従業員を守る義務」(カスハラ対策法)という二つの法律が揃い、現場が一人で耐える時代は終わります。この記事は、その全体像を経営者と現場の両方に向けて整理した、シリーズの入り口です。
この記事でわかること
- なぜ宿泊業が、カスハラの「最前線」なのか
- 宿を守る「二つの法律」の使い分け方
- 正当なクレームとカスハラの、危うい線引き
- 放置がまねく三つの経営リスクと、義務化でやるべきこと
- 口コミの脅し、インバウンド、経営者自身が矢面に立つ問題まで
この記事の内容
なぜ宿泊業は、カスハラの最前線なのか
長い接触時間、高い客単価、多い接点。宿泊業は構造的にカスハラが起きやすい。
カスハラはあらゆる接客業で問題になっていますが、宿泊業には他業種にはない、構造的な事情があります。これを理解しておくことが、対策を考える出発点になります。
第一に、顧客との接触時間が圧倒的に長いことです。小売や飲食であれば、応対は数分から長くても一時間程度でしょう。しかし宿泊業は、チェックインから翌朝のチェックアウトまで、長ければ十数時間、連泊ならば数日にわたってお客様と関わり続けます。一度こじれた関係を、その場で清算して終わりにすることができません。
第二に、一人のお客様が支払う金額が大きく、その分だけ要求の振れ幅も大きくなりがちです。「これだけ払っているのだから」という心理が、過剰な要求の引き金になることがあります。
第三に、フロント、客室係、調理、清掃と、さまざまな立場の従業員が、それぞれの持ち場で直接お客様と向き合います。接点が多いということは、それだけトラブルの入口も多いということです。
迷惑行為を経験
(UAゼンセン 2024年調査)
客は男性
同調査・50〜60代が突出
悩んだ経験のある宿
(全旅連 2022年調査)
実際、UAゼンセンが2024年に行った大規模な調査では、直近二年間で回答者の半数近くにあたる46.8パーセントが、客からの迷惑行為の被害にあったと報告されています。迷惑行為を行った客の七割は男性で、年代別では五十代・六十代が突出して多いという結果でした。さらに業種別の分析では、ホテル・レジャー分野のカスハラは、行為者が五十代男性を中心とし、一時間以上続き、理詰めや揚げ足取りを特徴とし、現金の要求や土下座の強要、過剰なサービスの要求につながりやすい、という像が描かれています。
冒頭の旅行代理店の事例を思い出してください。一時間を超える電話、高圧的で理詰めの物言い。これはこの調査が描き出すホテル業のカスハラの特徴と、見事に重なります。決して特殊な出来事ではなく、宿泊業の現場で繰り返されてきた、ある種の型なのです。
全国旅館ホテル生活衛生同業組合連合会が2022年に実施した調査でも、半数近くの宿が、迷惑客への対応に一度は悩まされた経験があると答えています。つまり、カスハラは一部の宿だけの問題ではなく、業界全体が共有してきた課題です。
宿泊業には、二つの法律が用意されている
「断る武器」と「守る義務」。この二つを連動させることが、対策の核心になる。
ここで、宿泊業の経営者にぜひ知っておいていただきたい、重要な視点があります。カスハラをめぐって、宿泊業には性格の異なる二つの法律が用意されている、という点です。
図:宿泊業のカスハラに関わる「二つの法律」
改正旅館業法(2023年12月施行)
迷惑な要求を繰り返す客の宿泊を断れるようにした法律。「特定要求行為」を宿泊拒否事由に追加。受け身だった宿に「断る」選択肢を与えた。
改正労働施策総合推進法(2026年10月施行)
客からの迷惑行為から従業員を守る体制づくりを、事業主の義務とする法律。いわゆるカスハラ対策法。
断る判断(攻め)と、従業員を守る体制(守り)は、ひとつながりで設計する。
一つは、2023年12月に施行された改正旅館業法です。これは、迷惑な要求を繰り返す客の宿泊を断ることができるようにした法律で、いわば「攻めの武器」にあたります。従来の旅館業法では、感染症や、賭博・風紀を乱すおそれなど、限られた場合を除いて宿泊を拒むことが難しく、理不尽な客に対しても宿側は受け身にならざるを得ませんでした。この改正により、一定の要件を満たせば、宿泊を断るという選択肢が法的に認められるようになりました。
もう一つが、2026年10月に施行される改正労働施策総合推進法、いわゆるカスハラ対策法です。これは、お客様からの迷惑行為から従業員を守るための体制づくりを、事業主の義務とするもので、いわば「守りの義務」にあたります。
攻めの旅館業法と、守りの労働施策総合推進法。この二つをどう連動させるかが、宿泊業のカスハラ対策の核心になります。迷惑客を断る判断と、断った後に従業員をどう守るか、そして断る前にどこまで対応すべきか。これらは本来、ひとつながりの設計として考えるべきものです。残念ながら、この二重構造を整理して語る情報はまだ多くありません。だからこそ、ここを押さえている宿は強いのです。
どこからがカスハラか――正当なクレームとの線引き
「毅然と対応」の号令が、正当なご指摘まで切り捨てる危険がある。線引きが先決。
対策を語る前に、まず「何がカスハラなのか」をはっきりさせておく必要があります。ここを曖昧にしたまま「カスハラには毅然と対応する」と号令をかけると、本来真摯に受け止めるべき正当なご指摘まで、現場が「これはカスハラだ」と切り捨ててしまいかねません。これは宿にとってかえって危険です。
改正労働施策総合推進法では、カスハラを三つの要素で定義しています。第一に、顧客や取引先、施設の利用者などが行う言動であること。第二に、社会通念上許容される範囲を超えた言動であること。第三に、それによって労働者の就業環境が害されること。この三つをすべて満たすものがカスハラとされます。
逆に言えば、料理が冷めていた、清掃が行き届いていなかった、説明と実際が違ったといった、宿側に非のある事柄に対する正当なご指摘は、たとえお客様の口調が厳しくても、カスハラではありません。ここを取り違えないことが大切です。
実務上は、お客様の「要求の内容が妥当かどうか」と、「要求を伝える手段や態様が相当かどうか」という二つの軸で考えると整理しやすくなります。たとえば、正当な不備の指摘であっても、土下座を求めたり、何時間も従業員を拘束したりすれば、手段の面でカスハラに転じます。この線引きの具体的な考え方については、別の記事で現場が判断しやすい形に整理してお伝えします。
放置することの、三つの経営リスク
安全配慮義務・人材流出・ブランド毀損。見えにくいが、宿の体力を確実に奪う。
カスハラを「現場で何とかするもの」として放置すると、経営に三つのリスクが及びます。
一つ目は、安全配慮義務に関わるリスクです。カスハラによって従業員が心身の不調をきたした場合、宿側が適切な対策を講じていなかったとなれば、安全配慮義務を果たしていなかったとして、責任を問われる可能性が指摘されています。義務化はこの点を、より明確にするものといえます。
二つ目は、人材に関わるリスクです。冒頭の旅館の事例のように、一度のカスハラが、長く勤めた従業員の離職につながることがあります。人手の確保が年々難しくなるなかで、「自分たちを守ってくれない宿」という評判は、採用にも定着にも重くのしかかります。
三つ目は、ブランドに関わるリスクです。カスハラへの対応のまずさが、SNSや口コミを通じて広がれば、宿の評判そのものが傷つきかねません。守るべき従業員を守れない宿は、お客様からの信頼も失っていきます。
これらはいずれも、数字に表れにくい一方で、じわじわと宿の体力を奪っていく性質のものです。だからこそ、義務化を「やらされる対応」ではなく、宿の競争力を守る投資として捉えていただきたいのです。
義務化で、経営者は何をすればよいのか
国の指針が求める措置は、大きく四つ。従業員が一人でもいれば対象になる。
2026年10月の義務化に向けて、事業主が講じるべき措置の内容は、2026年2月に公表された国の指針で示されています。労働者が一人でもいれば、すべての事業主が対象です。指針が求める措置は、大きく四つに整理できます。
第一に、カスハラに対する宿としての方針を明確にし、それを従業員に周知・啓発することです。「お客様は神様」という言葉に縛られず、理不尽な言動には宿として組織的に対応するという姿勢を、経営者が明言することが出発点になります。
第二に、従業員が相談できる体制を整え、その存在を周知することです。一人で抱え込ませない仕組みづくりです。冒頭の事例のように、理不尽な要求は時に一時間を超えて続きます。そうした場面で従業員を一人にしないことが、何よりの守りになります。
第三に、カスハラが起きてしまった後に、迅速かつ適切に対応し、再発を抑止する措置をとることです。被害を受けた従業員のケアも、ここに含まれます。
第四に、これらと併せて、相談者のプライバシーを守るなどの措置を講じることです。
これらの措置を、フロントや客室、調理といった宿泊業の現場でどう具体化するかは、別の記事で詳しくお伝えします。なお、義務に違反したからといって直ちに罰金が科されるわけではありませんが、行政からの指導や勧告の対象となり、勧告に従わない場合には企業名が公表される可能性があります。
断る、という選択肢――旅館業法という武器
断れる客と、断ってはいけない客がいる。線引きを誤れば、宿が差別の側に立つ。
従業員を守るうえで、宿泊業ならではの強力な選択肢が、改正旅館業法による宿泊拒否です。2023年12月の改正で、宿泊を断ることができる事由に「特定要求行為」が加えられました。これは、いわばカスハラにあたる行為を繰り返し、それによって他の宿泊者へのサービス提供に著しい支障が出るおそれがある客に対して、宿泊を断ることを認めるものです。
国は、この特定要求行為をいくつかの類型に整理しています。たとえば、正当な理由のない過剰なサービスの要求、対面や電話で長時間にわたり不当な要求を繰り返す行為、「ネットに書くぞ」「営業停止にしてやる」といった脅しの言動などが含まれます。
ただし、ここには注意すべき点があります。宿泊拒否は、障害のある方への差別と紙一重になりかねないという点です。たとえば、聴覚に障害のある方が筆談での対応を求めることや、車いすを利用する方がベッドの移動を求めることは、特定要求行為にはあたりません。これらは正当な配慮の求めであり、断る理由にはなりません。「断れる客」と「断ってはいけない客」の線引きを誤れば、宿が差別の側に立たされてしまいます。
だからこそ、断るという判断には、あらかじめ基準を定めておくことと、やりとりの記録を残しておくことが欠かせません。この宿泊拒否の実務上の使い方については、差別防止との両立も含めて、別の記事で具体的に解説します。
「悪い口コミを書くぞ」という、宿泊業特有の脅し
評価に売上を握られる宿だからこそ効く脅し。報復的な書き込みにどう備えるか。
宿泊業のカスハラを語るうえで、避けて通れないのが口コミの問題です。これは他業種にはあまり見られない、宿泊業に固有の難しさを抱えています。
「言うことを聞かないと悪い口コミを書く」「低い評価をつける」という脅しは、それ自体がカスハラにあたる脅迫的な言動です。しかし宿側は、予約サイトやインターネット上の評価に売上を大きく左右されるため、この脅しに屈してしまいがちです。
さらに厄介なのは、宿泊を断ったり要求をはねつけたりした後に、報復として事実と異なる低評価や誹謗中傷が書き込まれることがある点です。こうした悪質な書き込みは、評価の低下や風評被害を招き、売上だけでなく、働く人の心にも深い傷を残します。
口コミという脅しにどう向き合うか、そして報復的な書き込みにどう備え、どう対処するかは、宿泊業の経営者にとって切実なテーマです。この点については、口コミ依存と従業員保護の板挟みをどう乗り越えるかという観点から、別の記事で掘り下げます。
インバウンドと、文化のすれ違い
文化の違いは、カスハラではない。仕組みで防ぎ、本当の理不尽だけに毅然と。
訪日外国人のお客様が増えるなかで、文化や習慣の違いに起因するトラブルも目立つようになりました。ここで大切なのは、文化の違いによるすれ違いと、カスハラとを、きちんと区別することです。
土足の習慣、入浴の作法、食事の好みなど、日本の宿のやり方が当たり前に通じないことは少なくありません。これらは多くの場合、悪意のない誤解であり、丁寧な説明や多言語での案内によって防げるものです。これをすべて「迷惑行為」と捉えてしまうと、本来歓迎すべきお客様を遠ざけることになります。
一方で、「外国人だから」という理由だけで宿泊を断ることは、明確な差別であり、許されません。文化の違いによる摩擦は仕組みで減らし、本当に理不尽な言動に対しては国籍を問わず毅然と対応する。この使い分けが求められます。インバウンド対応とカスハラの境界については、別の記事で整理します。
カスハラに強い組織を、どうつくるか
個人の我慢でなく、組織の仕組みで受け止める。優秀な人が辞めない宿の条件。
ここまで個別の対応をお話ししてきましたが、最も大切なのは、カスハラを「個人の我慢」ではなく「組織の仕組み」で受け止める体質をつくることです。
カスハラに弱い宿には、共通する特徴があります。経営者の方針がはっきりせず、現場が「どこまで耐えればよいのか」を判断できない。相談する先がなく、つらい思いを一人で抱え込む。トラブルの記録が残らず、同じことが繰り返される。こうした宿では、優秀な人ほど早く辞めていきます。
反対に、カスハラに強い宿は、経営者が「理不尽な言動から従業員を守る」と明言し、その方針が採用や教育の段階から共有されています。私はかねてより、経営の閉鎖性こそが多くのリスクの温床になると申し上げてきました。外部の視点を取り入れ、組織として判断する文化を育てることは、不正の防止だけでなく、カスハラから従業員を守るうえでも有効に働きます。
経営者の方針表明、相談体制、研修、記録。これらを宿の規模に応じてどう組み立てるかについては、組織づくりの観点から別の記事で詳しくお伝えします。
経営者・女将自身が、矢面に立たされるとき
守る側でありながら、最後は自分が矢面に。小規模な宿ならではの孤立がある。
最後に、これまであまり語られてこなかった、けれども多くの宿が抱えている問題に触れたいと思います。それは、小規模な旅館や同族経営の宿では、経営者や女将ご自身が、カスハラの最前線に立たされるという問題です。
従業員を守る立場でありながら、難しいお客様の対応は最終的に自分のところへ回ってくる。守る側であると同時に、誰よりも矢面に立つ被害者でもある。この二重の負担は、想像以上に重いものです。
しかも、こうした悩みは、なかなか身内には相談しにくいものです。経営の判断やお客様とのトラブルを、配偶者や子、長年勤める従業員に率直に打ち明けるのは、立場上、容易ではありません。誰にも言えないまま、一人で抱え込んでしまう。これは経営者としての力量の問題ではなく、宿という事業の構造から生まれる、避けがたい孤立です。
だからこそ、宿の外に、利害から離れて相談できる相手を持っておくことには意味があります。経営判断に専門的な視点を一つ添えるだけで、見える景色は変わります。経営者ご自身がカスハラとどう向き合うかについては、小規模な宿ならではの事情を踏まえて、別の記事で考えていきます。
さいごに
いかがだったでしょうか。カスハラ対策の義務化は、宿にとって新たな負担に見えるかもしれません。しかし見方を変えれば、これは「お客様は神様」という言葉の下で長く我慢を強いられてきた現場を、宿として正面から守るための、またとない機会でもあります。攻めの旅館業法と守りの労働施策総合推進法、この二つを宿の実情に合わせて使いこなせれば、従業員を守りながら、宿の競争力そのものを高めることができます。
弊社アルファコンサルティングでは、ホテル・旅館の経営に特化し、特定の業者と利害関係を持たない独立した第三者の立場から、宿の課題に専門的な視点を添えてきました。カスハラ対策についても、宿としての方針づくりの支援、現場で機能するルールや記録の整備の支援、宿泊拒否の判断基準の策定支援など、それぞれの宿の実情に応じたお手伝いが可能です。経営判断やお客様とのトラブルは、身内には相談しにくいものです。だからこそ、外部の視点をご活用いただければと思います。
テーマ別にくわしく読む
ホテル・旅館のカスハラと正当なクレーム何がカスハラで何が正当な指摘か。現場が迷わない線引きの考え方を、事例の判定表で整理します。宿泊拒否、どこまで断れるのか改正旅館業法で断れる客・断ってはいけない客の線引きと、記録票・通知書の実務をまとめます。小さな宿のカスハラ対応マニュアルと相談体制義務化が求める四つの措置を、人手の限られた宿でどう整えるか。方針文サンプルと対応フローつき。「悪い口コミを書くぞ」と言われたら口コミを盾にした脅しへの向き合い方と、正当な低評価・悪質な書き込みの見分け方を解説します。外国語の低評価が怖くてカスハラに踏み込めないインバウンドの口コミとカスハラ対応の板挟みを、構造から解きほぐします。悪い口コミへの対応――生成AIの返信と海外OTAへの削除依頼外国語の口コミにAIで返信する手順と、削除申請の実務を具体的にまとめた実務ハブです。カスハラで最初に辞めるのは、一番優秀な人であるなぜ現場のリーダー格から辞めていくのか。人材を守る組織づくりの観点で論じます。女将・社長が矢面に立つとき経営者自身がカスハラの最前線に立つ、小規模な宿ならではの問題と向き合い方を考えます。描いた構想を、
ともに、かたちに。
こうしたい、こう変えたい——経営者が描いた構想を、ともにかたちにしていくのが弊社の役割です。数多くの経営に寄り添ってきた立場から、依頼者の望むかたちを、いちばんに考えます。
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